



気になるキーワードを入力してください
建産EYE
2014/12/26
誠実施工を実践~鉄道工事で数々の偉業を成し遂げる
奥村組工事所長 岩澤茂幸氏
奥村組工事所長の岩澤茂幸氏に、これまでの工事実績や現場リーダーとしての心構えなどを伺いました。
――これまでの工事実績を教えてください。
1982年に入社して以来、勤続33年目を迎えていますが、鉄道関係の工事に約24年間、道路および上下水道関係の工事にそれぞれ約4年間従事しました。2012年10月からは鉄道複線化および駅新設工事に従事しています。
――印象に残っている工事を教えてください。
特に印象に残っている工事は、1995年に発生した阪神・淡路大震災で寸断された阪神間の鉄道を復旧した工事です。奥村組が被害の一番大きい工区を担当することとなり、現地に一番乗りした私は鉄道の壊滅的な状況を目の当たりにして愕然とする一方、何とかして元どおりの姿に戻したいという思いを強くしました。当時は本格復旧するのに最低2年かかるといわれていましたが、ジャッキアップ工法を採用し、24時間体制で工事を続け、わずか2カ月半で全線開通という偉業を成し遂げました。施工中に地元神戸の方々から夜食を差し入れていただくなど温かい心遣いを受けたばかりか、懸命に働く私たちに向けて感謝の言葉が刻まれた横断幕を掲げていただいたときは、建設業で働いてきて本当によかったと心から思いました。また、初めて工事所長を務めた鉄道高架橋建設工事も印象深い工事でした。線路を跨ぐ道路橋を撤去して鉄道を高架化する工事でしたが、幼少期から住んでいた加古川市での工事だったこともあり、仕事の喜びを倍加させて業務に励んでいたことを今も覚えています。
――担当してきた工事の経験が生かせたと思える工事にはどのようなものがありますか。
奈良市での鉄道高架橋建設工事で、一夜で鉄道を跨ぐ道路橋を撤去して鉄道と道路を上下入れ替えるという難しい工事を行いましたが、それ以前に加古川市で同種工事を経験していましたので、さまざまな課題をこなしながら比較的スムーズに施工することができました。この時は数多くのテレビ局が工事の状況を撮影し、ニュース番組などで放映していたこともあり、大きな反響をいただきました。
――奥村組の歴史や経営理念を教えてください。
当社の歴史は、1907年に創業者の奥村太平が土木建築請負業に身を投じたことから始まり、1921年に個人経営「奥村組」を、1938年にさらなる事業の飛躍を目指して「株式会社奥村組」を設立しました。これをきっかけに、1944年に日本製鐵(新日鐵住金の前身)八幡製鐵所戸畑電接管工場新築工事、1955年に通天閣観光通天閣展望塔建設工事、1961年に東海道新幹線切山ずい道工事、1968年に日本万博協会多目的ホール新築工事、1987年に日本初の免震マンション工事を手がけるなど、さまざまな分野で実績を積み重ね、2007年に創業100周年を迎えました。創業以来、「堅実経営」と「誠実施工」を信条に、土木・建築を両輪とする調和のとれた総合建設会社として、「社業の発展を通じ、広く社会に貢献する」を経営理念に着実に歩んできました。この長い歴史の中で培われた高い技術力と健全な財務体質を生かし、今日まで社会資本の整備に貢献し発展し続けてきたことを誇りに思うとともに、今後も技術の研鑽を積み重ね、人々の快適で安全な暮らしと美しい自然との両立を目指し、次世代からも必要とされ続ける企業の一員として精励していきたいと思います。
――奥村組の工事所長およびご自身が誇りにしていることは何ですか。
当社では、創業者から受け継がれてきた「誠実施工」の信条を、先輩から後輩に奥村組の歴史を交えて語り継いできました。この信条こそ、他社に負けない良さがあり、奥村組を象徴する言葉であると考えています。当社の工事所長は担当工事で「誠実施工」を実践し続けることで、社会の皆さまに評価されてきたことを誇りにしていると思います。私自身も発注者から信頼され、地域社会の発展に寄与することを念頭に業務に取り組んでおり、工事関係者のみならず、地域住民の方々から温かい言葉や感謝の言葉をいただいたときには、技術者として何とも言えない喜びを感じます。
――現場運営で大切なことは何ですか。
現場力の強化が重要だと思います。私の現場では現場力強化ビジョンとして、「現場内の目的・目標を共有化すると同時に、全員で仕事に誇りを持ち、モチベーションを高め、夢・情熱に向かって邁進する」を掲げ、職員・職人全員で取り組んでもらっています。同じベクトルで効率よく仕事を進めていくためには、誰でも意見できる「開かれた職場風土」が必要であり、安全・品質・工程などを厳格に管理する「体制」も必要となります。さらには、社会貢献を意識しながら与えられた役割や責任を全うする「各人の自覚」も必要だと感じています。ひらがなで氏名が書かれたシールをヘルメットの前後に貼り、話しかける相手を「監督さん」「土工さん」などと呼ばず、ちゃんと名前で呼ぶようにルール化したのもその一例です。相手を意識して話すことで、親近感もわき、職場で意見交換や議論がしやすくなりました。
――労働災害を防止するポイントは何でしょうか。
現場の安全スローガンとして、「安全は、駑馬十駕の如く進もう!」を掲げています。抽象的な言葉ですが、「私たちは駿馬のような飛び抜けた才能を持ち合わせていなくとも、各自が確実に安全を厳守していければ、必ず無災害で竣工を迎えられる」という意味合いがあり、焦らず、おごらず、考えてから行動することの重要性を繰り返し指導しています。また、労働災害は忘れたころに同様の災害が発生するという傾向があることから、現場の工程に合わせて発生する恐れのある災害事例を拾い上げ、定期的に分かりやすく紹介して災害防止に努めています。
――職人不足に直面した工事ではどのようにして対処しましたか。
東日本大震災発生時には北陸新幹線の建設工事に従事していました。北陸信越地方では、新幹線関連需要と震災復旧需要が重なり、特に大工職人が不足していました。現場で職人を手配することができなくなり、工程に影響が出始めたため、現場を管轄する支社に職人の手配を依頼し、名古屋から職人を手配してもらいました。手配してもらった名古屋の協力会社は北陸での仕事が初めてだったので、資材置き場、加工場および宿泊設備などを現地で確保する必要がありましたが、地の利がある地元協力会社の支援を得て対応することができました。どちらも、当社と信頼関係のもと中・長期的に取引してきた協力会社があったからこそ、対処できたものと理解しています。
――職人に対する要望はありますか。
私が入社した32年前の職人は、一言で言えば「怖い人」でした。入社して間もない何も知らない私に、あれこれと無理難題を言ったり、指示したことでも納得してもらえるまで働いてもらえなかったりで、途方に暮れる毎日でした。今となれば、それが若い技術者に対する職人ならではの教育の仕方だったんだと理解しています。当時の職人は私たち以上に自分の仕事に誇りを持って働いていたので、いろいろなことを教わりました。今の職人の皆さんは、昔と比べて少しおとなしくなったように感じます。もっと地域社会に貢献していることの喜びと、社会から必要とされる仕事を手がける意気込みを前面に出しながら、私たちと一緒に建設産業の魅力である「ものづくり」に取り組んでいただきたいと思っています。今後も頼もしい職人に巡り合えることを楽しみにしています。
――建設産業を発展させるためには、現場から見て何が必要だと思われますか。
社会や顧客のニーズに沿った技術を提供し続けることはもちろん、後継者の育成・確保が必要であるとともに、建設産業が人々の安全・安心な暮らしに寄与し、地域社会の発展に貢献する必要不可欠な産業であることをより多くの方々に知っていただくことも大切だと思います。まずは、あらゆるジャンルで発注者の協力を得ながら現場見学会などを開催し、建設産業の役割をアピールし続けることが必要であると考えています。
【プロフィール】
岩澤茂幸(いわざわ・しげゆき)=1959年神戸市生まれ。1982年大阪産業大学土木工学科卒、同年奥村組入社。